2012年1月10日火曜日

お得意先客

矢作 弘

昨年晩秋のころ、A新聞の拡販員が訪ねて来て「12月のひと月でいいので購読して欲しい」とせがまれた。

薄っすら白髪混じりの女の拡販員は、「洗剤を2箱か、発泡酒を半ダース、サービスするので是非、取ってください」と言った後、「麦酒じゃなくて申し訳ない」と付け加えた。その正直なところにほだされたわけではなかったが、いま考えてみると、断る理由を考えるのが億劫になったのかと思うのだが、取り敢えず年末一ヶ月取ることを約束した。

新春を迎えたが、年の瀬に洗剤が配達されてくることはなかったし、当面、発泡酒が届く気配もない。新聞社に長く務めていたので、業界の熾烈な拡販競争についてはそれなりに知っていた。したがって「釣った魚には餌をあげない」ということもあるだろうな、という予想は、購読を約束した時点にある程度あった。だから発泡酒が届かなくても、それほど驚いてはいない。冷蔵庫には、クリスマスに東京からやって来た共同生活者が買い置きしてくれたプレミアム麦酒が残っているし、「約束の不履行は不誠実ではないか」などと叱責する気持ちはない。まあ、次に来訪し、継続購読を乞われても、もはやそれには応じないよ――と玄関の扉を開かない程度の心つもりは出来た。

 新聞の購読に関して憤慨したことは、別の機会にあった。その時はB新聞だった。東京の我が家は、その時までに10年以上、B新聞を購読していた。同じ販売店から長い間、経済新聞も取っていた。B新聞の販売店員が月末集金に来たときのことだったが、代金払いをしながら「B新聞が主催している某美術展の優待券をくれるなど、少しはサービスしてくださいな」と軽口を叩いたところ、件の販売員は表情ひとつ変えずに、「お宅は長期購読者ですからサービスはないです」と実に明瞭に言い切ったのである。この応対には、些か吃驚したし、「聞き違い?」と耳を疑うところもあった。しかし、その若い販売店員は確かにそう言ったのである。

一ヶ月購読してくれれば洗剤か、発泡酒を提供するし、三ヶ月ならばはるかにもっと高価な品物をくれるが、10年も購読している客には、あげるものはなにもない。美術展の優待券もあげない。なにもあげなくたっても逃げないだろう、というマーケティング戦略である。

 年末年始にアメリカに調査旅行をし、C航空会社を使った。成田空港のチェックインカウンターで「今回のご旅行では、ビジネスクラスにグレードアップしてご利用いただけます」というラッキーに出合った。年末の便だったために、エコノミークラスが海外で正月を過ごすパッケージ旅行客で満席だったことが幸いしたのだろうが、それにしてもどういうマトリックスを駆使してエコノミークラスの客の中からグレードアップする客を選び出すのだろうかを考えた。

ゴールドカード(頻繁に利用する優待客カード)の所有者? それもあるだろうな・・。しかし、そのときチェックインカウンターの職員が「D航空会社のマイレッジを集めていらっしゃいますね」と話していたことを、ふっと思い出した。C航空会社とD航空会社は、同じグローバル航空会社グループに所属している。C航空会社に乗っても、そのマイレッジをD航空会社のカードに振替集約することができる。実際、そうしているのだが。

それで薄々推論したのだが、D航空会社のゴールドカードを持っているということはD航空会社の得意先客、時々ビジネスクラスも利用している乗客かもしれない。それならばC航空会社が「我が社のビジネスクラスを試してもらい、D航空会社と乗り心地、サービスを比較する機会を与え、こちらの得意先客に転向してもらう(それでもD航空会社のマイレッジは貯まる)」という戦略をとっても不思議はない。実際、D航空会社の得意先客を取り込むキャンペーン期間に、運よくめぐり合ったのかもしれなかった。

この推論が相当に確かだろうな、と確信するに至ったのは、旅行を同伴した某教授とチェックインカウンターの職員のやり取りを聞いてからであった。某教授がC航空会社のマイレッジカードを提示したところ、「お客様、D航空会社のマイレッジ会員にはなっていないのですか」としきりに聞かれたのである。「なっていないとまずいな、我が社のマイレッジカードしか持っていないとグレードアップできないな」という雰囲気なのである。

C航空会社のゴールドカード会員であったら(D航空会社のマイレッジカードを持っていなかったら)、選択マトリックスの埒外に置かれ、この際、ビジネスクラスへのグレードアップの恩恵を受けられなかったのではないか、ということが、相当に確かなこととして推論できたのである。

 科学的マーケティングの本質は、「得意先客こそ、敢えてサービスの対象から除外する」という処にある、ということを実体験する年末年始でした。