2012年1月25日水曜日

「敵」をどう見極めるか

奥野 恒久

先日、「人権論」の講義で「労働者の権利」と題して、労働者派遣法の概要を解説し、派遣労働者の労働実態を、ジャーナリストの竹信三恵子氏の論稿「派遣法改正はなぜ必要か―『派遣切り』被害者は問う」(世界2011年2月号)を参照しつつ紹介した。正社員との賃金格差、「雇止め」に対する不安…、「人権論」という講義の性格上、紹介が特徴的なものになったのは確かである。学生たちに考えてもらいたかったのは、「一人ひとりが大切にされなければならない」という人権規範から現在の労働環境の一端を見つめ、法制度を含めた労働システムについてであった。もちろん、その前提として「働く」とはどういうことなのか、それは生活していくために収入を得ることに尽きるのか、という問題がある。

 授業終了後、小レポートにて感想を求めたところ、4年生の学生から次のような感想が出された。要旨は、「去年から今年にかけての厳しい就職活動を行ってきた自分としては、やはり派遣会社に登録して軽い面接ぐらいで派遣されてきた人たちよりも、苦労してやっとの思いで入社した正社員の方を優先してもらいたいというのが正直なところである。そもそも今回の講義の内容では、派遣労働者のマイナス面がクローズアップされているが、やはり時間外労働が少なく定時に上がれるといった気軽さもあるので、マイナス面のみを取り上げるのはどうかと感じてしまう」というものである。正直な思いを綴ってくれたことに感謝しつつも、さてどう応じるべきか、ひとしきり考えてしまった。正社員と派遣社員とを敵対させることが講義の趣旨ではなかったのだが、うまく伝えることができなかったようである。いや、私の視点への反発かもしれない。

 ともあれ、「敵」を見極めることの大切さについては、考えておかなければならない。昨年は、北アフリカから中東にかけて多くの犠牲を伴う民衆の怒りが爆発した。「ウォール街を占拠せよ」という叫びがアメリカでも沸き起こった。日本でも、経済危機に加えて大震災と原発事故、先行きの見えない不安から、人々の怒りは深層にて相当渦巻いているようである。だからこそ、憲法学者の樋口陽一氏は「方向を見定めぬ怒りのままでは危うい」「『怒り』がやり所のない不満に火をつけ、見当ちがいの標的に向けられてはならぬ。手を繋がなければならぬはずの者同士が足をひっぱり合うことになってはならぬ」と今日の日本社会に警鐘を鳴らすのである(「いま、大切だと思うこと―〈苛立ちと不安〉から〈いきどおり〉〈義憤〉へ」(別冊世界『破局の後を行きる』))。

 さて、怒りの矛先、あるいは「敵」をどう見極めるか、である。あるいは、見極めれるようになるには、何が必要なのか。嫉妬や憎悪ときに興奮、と揺れ動く自らの感情。テレビの情報にも振り回され、周囲の眼や動きもやはり気になる。そのような中で、である。「社会にどう参画するか」ではなく、「『敵』をどう見極めるか」。言い方は「どぎつい」。しかし実は、大学で学ぶことの目的の一つがここにあるのではないだろうか。

(奥野恒久)