2012年1月26日木曜日

深草・神社雑感

坂本 勝

龍谷大学の政策学部が、京都洛南の「深草」の地に誕生して、10ヶ月が経ちました。
「深草」と言えば、絶世の美女小野小町に恋をし、想い叶わず亡くなった「深草の少将」の悲恋が思い浮かびます。大学のそばの駅名は、この伝説に因んでいるか分かりませんが、「深草」となっています。歴史的な地名を大切にすることに異論はありませんが、この駅を乗り降りするたびに、「龍谷大学前(深草)」に改名できないかとついつい考えてしまいます。また、深草には入試の時期も急行が停車することはありませんが、隣りの伏見稲荷駅には急行が停車します。市場原理に従うと、年末年始に限らず乗降客の多い「深草」こそ急行を停め、ホームも広く立派にすべきと思うのは、身びいきに過ぎるでしょうか。
この「深草」の地は、藤原俊成が「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉(うずら)鳴くなり深草の里」(千載259)と詠んだことでも知られています。伏見稲荷の境内には最近は少なくなったようですが、焼き鳥屋が軒を並べていました。この地に生息していた鶉などは五穀豊穣の敵として召し捕ってもいいということで、神社と焼き鳥屋のコラボが実現したようです。

ところで、神社と一口に言いますが、神社はいくつかの系統に分かれています。神話の世界の話になりますが、まず、「天(あま)つ神」を祀る神社があります。その代表格は、天皇家の先祖とされる天照大御神(あまてらすおおみのかみ)を祀っている伊勢神宮で、天つ神系の神社の頂点に位置しています。伊勢神宮は、天照大御神の和御魂(にきみたま)を祀っていると言われますが、西宮の廣田神社は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)を祀っており、戦前は、軍人が戦勝祈願によく参拝に訪れたようです。
この廣田神社のすぐそばに駅を作るように陸軍が要求したのを阪急電車の小林一三が経済コストを理由に頑強に反対し、資本主義が軍国主義に勝ったという逸話も残っています。ちなみに、小林一三は、第二次近衛内閣の商工大臣に就任しますが、商工省の岸信介(後の総理大臣)次官以下の東大閥官僚の統制経済に反対し、対立します。小林一三は、わずか9ヶ月で大臣を辞職し、「大臣落第記」を中央公論(昭和16年5月号)に寄稿しています。

次に、「国(くに)つ神」を祀る神社があります。地方の豪族が信仰する大国主命( おおくにぬしのみこと ) を  祀る神社で、その代表格は出雲大社です。10月を古い言い方で「神無月」(かみなづき)と呼びますが、これは八百万(やおよろず)の神々が出雲大社に出張し、神々が地元にいなくなるためと言われています。一方、出雲地方では10月のことを「神在月」(かみありづき)と呼ぶのは、日本国中の神々が出雲大社に参集するためと言われています。
大和朝廷は出雲地方を政治的に支配しましたが、出雲地方の豪族が信仰する神々を尊重しました。戦前、日本人が参拝することを名目に台中神社、京城神社、平壌神社などを建立し、現地の人々にも参拝を求めたことなどを想起すると、古代人の方が地方自治の理念をわきまえていたと言えるかもしれません。

さらに、「怨霊(おんりよう)」を祀る祟(たた)り系の神社があります。菅原道真を祀る北野天満宮、平将門を祀 る神田明神などが代表的な神社です。菅原道真や平将門が不遇の死を遂げると、天変地異が起きたり疫病が流行し、権力者は、怨霊を恐れて霊を鎮めるために神社を建立したと言われています。この他、稲荷信仰の総本山である伏見稲荷大社 があり、神社は実に多様です。

戦前、神社は内務省神社局が所管し、明治4年に社格制度が導入されています。伊勢神宮は、最尊貴の神社として社格制度の対象外とされましたが、神祇官より奉幣を受ける「官幣社」は官幣大社、官幣中社、官幣小社に分けられています。
また、地方官により奉幣を受ける「国幣社」は国幣大社、国幣中社、国幣小社に分けられ、官幣社にも国幣社にも分類できない官社は「別格官幣社」とされています。

この社格制度では、廣田神社、出雲大社、伏見稲荷は官弊大社と位置づけられ、北野天満宮は官弊中社、神田明神は府社、靖国神社は別格官弊社とされています。なお、この社格制度は、第二次世界大戦後、GHQの「神道指令」(昭和20年12月)により廃止されています。

このように、神社の歴史的沿革は多様で、神社への想いも人によってさまざまでしょうが、しばし都会の喧噪を離れて、神社仏閣の静かな空間で、小鳥のさえずりや木洩れ日を楽しんでみるのもいいでしょうね。