2011年6月30日木曜日

中国のパンダと自然保護区

谷垣 岳人

中国の自然保護区に年に数回行きます。生物多様性の保全政策についての聞き取り調査のためです。今年は上野動物園のパンダ、リーリーとシンシンの生まれ故郷、四川省雅安の中国大熊猫(パンダ)研究中心雅安碧峰峡基地(以下、雅安パンダ研究センター)と、四川省成都の成都大熊猫繁育研究基地(以下、成都パンダ繁殖研究基地)に行きました。

中国の子供たちも社会見学


中国というと、13億人という世界一の人口をかかえながら爆発的な経済発展を遂げており、中国の自然環境を思い描くことは難しいかもしれません。しかし、中国には、乾燥した砂漠や草原から高温多湿な熱帯林まで多様な生態系があります。それぞれの生態系には、実に多くの生き物が暮らしています。
種数でみると、中国の哺乳類の種数は556種と世界第2位で、爬虫類は4位、両生類も6位です。鳥類は第8位ですが、種数は1329種にも及びます(ちなみに日本は542種、面積比から考えると日本も意外に多いのです)。さらに中国だけに生息する固有種も多く、哺乳類では20%(109種/556種中)が固有種です。このように、実は中国は地球の生物多様性のホットスポットの一つなのです。

しかし、人口増加や経済活動の拡大に伴い、多くの生き物が絶滅の危機にあります。国際自然保護連合(IUCN)の「レッドリスト 2010年度版」によると中国の絶滅危惧種数は840種です。その象徴的な動物はパンダ(中国語で大熊猫)です。パンダは中国の固有種で、その推定個体数はわずか1600頭です。愛らしい姿から動物園の人気者ですが、野生個体は中国の陝西省と四川省だけに生息しています。かつての分布域は広く、化石の記録からは中国の東半分くらいの範囲に生息していました。

パンダの特徴は、白黒の姿だけでなく、クマの仲間という進化的な系譜を忘れたかのような食性です。もともと雑食性のクマの仲間であるパンダ。なぜ竹しか食べなくなったのでしょうか(※)。そのわけは、200万年前頃の氷河期の到来だと考えられています。氷河期の到来により、餌となる生物が激減し、なかでも比較的量の多い植物に主食をスイッチして、厳しい環境を生き延びたと考えられています。(※正確には小動物などの肉も多少は食べるそうです)

竹という栄養の乏しい餌にスイッチするために、パンダの身体で進化した部分と進化していない部分があります。

大きく進化したのは、物をつかめるようになった手です。もともとクマの仲間は、指が前方向にだけ伸びています。なので、人間の親指のように指どうしが向き合わず、物をつかむことができません。ところが、パンダは手首の骨の一部が発達して、6本目の指があるのです。いわゆるパンダの親指です。これを巧みに操り竹を握ります。成都パンダ繁殖研究基地で、特別に子パンダの6本目の指を触らしてもらったのですが、指と言うより突出した肉球のような、柔らかく不思議な指でした。また固い竹の幹(桿)をかみ砕くため顎の筋肉が発達しています。だから、あの愛らしい丸顔なのです。

リラックス食事モード
パンダの親指

一方、進化していないのは消化器官です。竹のような繊維質が多く栄養の乏しい餌を食べ、ほとんど未消化の糞として排出します。つまり胃腸は、牛などの草食動物のように消化効率を上げる進化はせずに、ご先祖のクマ時代の名残を残しているわけです。なので、一日の大半の時間を、竹林に座り込み食事にあてています。パンダは究極のスローフード実践者ともいえます。


中国はパンダをはじめとする、生物多様性の保護に力をいれています。
パンダはアンブレラ種と言われていて、パンダを守ることで同じ地域に生息する他の生物たちも守ることができます。パンダが傘をさす姿を想像してみてください。その足下には、多くの生き物が雨を避けて暮らしていける、そんなイメージです。パンダ保護では、2つの方法、つまり保護区の新設と保護区外での繁殖をおこなっています。パンダ分布域を自然保護区にして、樹木伐採や密猟などを取り締まっています。中には日本のカラマツを植えた植林地をパンダが暮らせる自然林に戻すプロジェクトを進めている自然保護区もあります。

現在のパンダ分布域


パンダ保護区の実数は増えてきていますが、それぞれの面積は小さく、分断化しています。このことがパンダの生息に思わぬ影響を与えます。餌となる竹は、60-70年に一度、地域で一斉に花を咲かした後に枯死するという、不思議な性質があります。保護区が小さい場合、その一斉枯死は保護区全体に及び、逃げ場のないパンダは餓死します。また、保護区が小さいとパンダの近親交配が起こり、遺伝的な多様性が減ることも問題視されています。そこで保護区どうしをつなげる回廊づくりも進んでいます。

一方、保護区外での繁殖の取り組みの中心地が、今回訪問した2カ所、雅安パンダ研究センターと成都パンダ繁殖研究基地です。
パンダの繁殖は、もともと四川省の臥龍自然保護区に臥龍中国パンダ保護研究センターで主におこなわれていました。しかし、2008年5月におきた四川大地震で臥龍中国パンダ保護研究センターが使えなくなり、ほとんどのパンダが雅安パンダ研究センターに引っ越しました。四川大地震はマグニチュード8もあり、死者行方不明者は8万人以上でした。山奥の村は壊滅的な被害を受け、その場での再建を断念して、村ごと引っ越して新しい町ができていました。私が2011年に訪問したときも、臥龍自然保護区へ続く道は、山肌が大きく崩れたままで、山の谷を走る道も、なんとか土砂をどけて通れる状態でした。

地震による崖崩れで消失した村


地震後に作られた新しい町


雅安パンダ研究センターには81頭のパンダが飼育されており、2010年には20頭の子パンダが生まれました。これがパンダの幼稚園というコーナーで集団で飼育されており(生物学的には単独行動をするパンダを集団で育てることはおかしいのですが)、観光客の人気を集めています(これまた商業主義的で、繁殖後は自然復帰させるためという、当センターの趣旨からずれていて問題があります)。実際にここで生まれた個体を自然に復帰させるという試みは今のところ失敗しています。

パンダ幼稚園


子パンダ:その愛らしさは野生動物とは思えない


うまくいっているのは、パンダのレンタルビジネスです。日本をはじめとする世界各国へ、莫大なレンタル料で貸し出しています。この春から東京の上野動物園で展示が始まった2頭も、この雅安パンダ研究センターからやってきた個体です。このレンタル期間が過ぎると、また中国に戻ってきます。そんな帰国子女ならぬ帰国パンダが余生を過ごすエリアもありました。

帰国したパンダたちのエリア


中国のでパンダ保護政策は、人工養殖で個体数を増やし、さらに野生個体の生息域に保護区を作ることで絶滅の危機を脱しようとしています。そのため、保護区にもともと暮らしていた人を、保護区外に移住させるという、生態移民政策も行われています。この保護区運営と地域住民との軋轢解消は、世界中の自然保護区で起こっている問題であり、生物多様性条約第7回締結国会議COP7での議題の一つでした。中国では、砂漠化を防止するために、乾燥地からの生態移民が多いのですが、移住した住民が不利益を被っている事例もあります。では、パンダ保護区での生態移民はうまく進んだのでしょうか。これは今後の調査課題です。

2011年6月23日木曜日

質問 『世の中で「これだけは許せない」ことは何ですか?』

的場 信敬

タイトルにあるこの質問、実はゼミなどの最初の講義で、学生によく訊く質問です。何の根拠もないですが、例えば「好きなこと」を聞くよりも、その人の内面が垣間見えるような気がするからです。また、「世の中で」と訊くことで、その人の「世の中」がどのくらいのスケールに渡っているのか、も感じることができます。

例えば今年の学生では、「歩きながらタバコ吸う奴が許せない」という子がいましたが、この子は恐らくモラルに敏感で社会正義を尊ぶ子だな、とか、「自分が好きなアイドルを馬鹿にするのは許せない」という子は、平和で幸せな日々を過ごしているなあと思いつつ、そこまで一途に好きな人やコトがあるのは素晴らしいな、とか「勝手に」考えてます。また、「わからないことをほっておくのが許せない」と、「世の中」の前にまず自分を顧みるような責任感の強い子もいて、教員としてこれまた「勝手に」頼もしく思ったりもします。あくまで「勝手に」です。この質問だけで学生のことがすべてわかるわけではありませんから。

一見なんてことのないこの質問、実は「政策」のお話と関係しないわけでもありません。「許せない=怒り」の感情が政策を変えていくことはしばしばあります。例えば、国の生ぬるい対策に業を煮やし、より厳しい環境政策を検討する地方政府や、行政の十分でない対応に怒りを覚えて、NPOや市民が自分たちで活動を展開し、それが行政の新たな政策に結びつく、といった例です。後者で分かりやすいのは、1995年の阪神淡路大震災での市民活動団体の活躍が契機となった1998年のNPO法制定や、今回の新NPO寄付税制を含んだ税制改正法案の成立でしょうか。

それにしても日本政治の現状はひどいですね。現在の国民の「怒り」の多くは、この政治と政治家に向けられているのでしょうか。もちろん、政治家を選ぶのは私たち国民ですから、当然私たちにも責任があるのは忘れてはいけませんが。いずれにしても、「怒り」があるうちは、行動の原動力になる分まだ良いですが、一番怖いのは、「怒り」を通り越して「呆れ」そして「無関心」になることだと思います。「無関心」は恐らく何も生み出さないでしょうから。学生の社会や政治への「無関心」を少しでもなくしていくこと、一教育者の私ができる数少ない社会貢献のひとつだと思っています。

ちなみに、私の現在の「これだけは許せない」ことは、このところの心身両面の不安定さからくる自分の覇気のなさです。奥野先生のお言葉を借りれば「六月病」でしょうか(2つ前の先生のブログ参照)。今はこれへの「怒り」を原動力に何とか気合を入れなおそうと画策しているところです。あるいは、奥野先生の解決策を自分も試してみようかな?

2011年6月21日火曜日

中国との学術交流雑感

坂本 勝

中国との学術交流を振り返ると、1994年8月下旬から9月上旬にかけて「日中行政学交流委員会」の一員
として北京を訪問し、民族飯店での研究会で「日米の公務員制度改革の動向」と題して報告したのが、私の
学術交流のはじまりでした。* この研究会の終了後、訪問団一行が「中南海」で、日本の内閣官房長官に
相当する国務委員兼国務院秘書長の羅幹氏と面談したことなどが懐かしく思い出されます。



北京「民族飯店」における日中交流研究会のメンバーと。

上海の研究会では、復旦大学の林尚立副教授(国際関係公共事務学院の現院長)の「中国の分税制の下
での中央と地方関係」と題する報告終了後、浦東新区を見学しましたが、94年当時の浦東地区はほとんど
更地のような状態でしたので、現在の浦東地区の発展ぶりには驚嘆させられます。訪問先の南京(明時代
の都)では、南京城、孔子廟とそれに隣接する科挙の試験場跡などを見学し、** 当時の官吏登用試験
の問題・解答やカンニング下着などの展示に感激したことが思い出されます。


 
南京「科挙試験場」資料館の展示。

その後、北京、上海の大学との研究交流を経て、本年3月には、政策学部・政策学研究科と中国の大学と
の学術交流の予備的話し合いをするために、上海の復旦大学と華東政法大学を訪問する機会がありまし
た。近年、中国の経済・政治の近代化、グローバル化の進展に伴い、中国の大学では、政治学・公共管理
学の教育・研究の比重が高まるようになっています。2001年のWTO加盟を契機に、国際基準の人材育成
を目的として、24の拠点大学に設置された公共管理学修士(MPA)教育コースは―公務員8割・公営企業
職員2割の社会人対象―、2010年現在100大学において設置されるまでになっています。***
このMPA教育コースは、復旦大学では「国際関係公共事務学院」に、また、華東政法大学では「政治学与
公共管理学院」に設置され、本学法学部は、2008年4月同学院と学術交流の一般協定を締結しています。

さて、中国の有力拠点大学である復旦大学の「国際関係公共事務学院」との学術交流についてですが、
北川先生、金先生とともに同大学院の顧麗梅副教授、陳雲副教授と予備的な話し合いを行い、同大学院の
院長林尚立教授と副院長呉心伯教授の同意のもと、秋頃までを目途に学術交流一般協定を締結する手はずになっています (http://www.sirpa.fudan.edu.cn/)。


 
国際関係公共事務学院の陳先生・顧先生、政策学部の北川先生・金先生と。

この話し合いの翌日、同学院の陳雲副教授の受講生たちに「公務員の人材育成の課題―日米中比較―」
と題して講義する機会がありましたが、院生たちのきらきらした目の輝きがいまでも印象に残っています。


 
国際関係公共事務学院の陳先生、院生たちと。

次に、中国における法学・政治学の教育研究の有力大学である華東政法大学「政治学研究院」との学術
交流の話し合いについてですが、こちらの方は、親日家の院長李路曲教授と龍谷大学に留学経験のある
副院長袁峰教授の意向もあって順調に進展し、本年6月28日に学術交流の一般協定を締結する運びに
なっています。
華東政法大学の「政治学研究院」は、一般院生の政治学修士教育を目的として、2008年2月に設立さ
れた大学院です。華東政法大学の設立は1952年ですが、その前身は1901年に設立されたミッション系
の「聖ヨハネ大学」(St. John's University)です。孫文の妻の宋慶齢、蒋介石の妻の宋美齢美人姉妹の
弟三人が卒業した大学ということで、中国では名門の伝統校として知られています。(http://psi.ecupl.edu.cn/home/index_cn.asp

本年4月に発足した政策学部・政策学研究科は、海外の大学との学術教育交流を通じて、地域社会の
課題を国際的な観点から解決できる人材育成を目指していますが、学術研究交流に意欲的な華東政法
大学「政治学研究院」と復旦大学「国際関係公共事務学院」との間に一般協定を締結することは、日中の
学術研究・教育活動の発展にとって非常に有益であると思われます。今後、学術交流協定が絵に描いた
餅で終わることがないように、学術交流の実績を重ねていく必要のあることは申すまでもありません。
この協定の締結を契機に、海外の大学との学術交流がさらに進展していくように願っています。

    *  日中行政学交流については、片岡寛光「日中行政学交流委員会’94年度訪中報告」
       『季刊行政管理研究』(1994.12, No. 68)として紹介されています。
   **  今から1400年以上前の隋時代の587年に成立した科挙制度は、清時代の1904年を
       最後に実施されなくなりましたが、それから90年後、日中行政学交流中の9月に、公務員
       試験が初めて実施されています。
       科挙制度については、宮崎市定『科挙―中国の試験地獄』(中公新書)が詳しい。
  *** 中国のMPA教育については、拙著『行政学修士教育と人材育成』(公人の友社)、
        拙稿「公務員の人材育成の視点」『龍谷法学』(第42巻第4号)を参照。

2011年6月17日金曜日

五月病、いや六月病?

奥野 恒久

近代科学技術と距離を置き、「時代遅れ」であることで心身の健康をはかろうとしている私は、ブログというものと無縁の生活を送ってきた。読んだこともなければ、書いたこともない。それが今、「チーム政策」の一員として書こうとしている。だいたい、この言葉の意味も語源も分からない。調べてみると「Web上にLog(記録)する」ところから来たとか。なるほど、エッセイ風に、とにかく何かを書きとどめればいいようである。さて、何を書きとどめるか。「君が代」をめぐる最高裁判決が相次いで出ている。思うことがいくつかあるのだが、「それを書こうか」と、昼食時にI研究科長に話すと、「硬いなあ」と渋い顔をされた。困った。

今、思っていることの一つに、「力が入らないときがある」「元気の出ないときがある」という、相当以前から(中学生くらいからか?)の問題がある。生産性はあまりないのだが、6月に入って講義への出席者の減少現象を見ると、私同様、この時季「元気が出ない」と沈んでいる学生もいるのかもしれない。そんな学生への「エール」か「ヒント」か「慰め」くらいになるだろうか。

生活の一転する4月、そして5月は興奮と緊張のなか、無意識のうちにも張り切って突っ走るものである。慣れてないから力の入れ加減も分からず、何にでも力む。もちろん、精神面・肉体面での疲れはたまる。6月に入り、少し気が緩む。暑さと梅雨時分のうっとうしいのも加わって、気持ちと体がやたらと重い。好奇心は薄れ、集中力も持続せず、できることなら横になってだらだらしていたい。少し遅れての「五月病」、いや「六月病」か。

とはいえ、私はこの病気との付き合いが長く、いろいろと試してきた。その一、部屋を「抜本的に」片付ける。なかなか自分はできないが、これはおススメ。その二、時間をかけて相当遠くまで走る。例えば小銭をもって京都から大津くらいをめざし、ゆっくりゆっくりとにかく走る。琵琶湖が見えてきたら、展望が開けるのではとの希望をもって。その三、「鈍行」に一人乗って、日帰りないし一泊程度のミニ旅行に出る。できれば、京都より騒がしくないところがいい。普段の生活圏を離れると、感受性が敏感になる一方、日常酷使してきた神経を休ませることができる気がする。そしてその四、「明日から出直そう」と誓って大酒を飲む。これはうまく行ったためしがなく、翌日は吐き気をともなう自己嫌悪で、自分が情けなくなることもしばしば。そのほか、まあいろいろやってきた。

それに昨今の私は、この病気の深刻度を軽減する術を身に着けつつあるようなのだ。第一は散歩。早朝、1時間弱歩くのだが、これが私にとって唯一健康にいいことであり、精神状態管理策でもある。第二は、日記というほどではないが簡単なメモを手帳に書きとどめる。書かれているのは、健康・精神状態と体重と飲酒量。昨年の手帳を携帯し、時折見返すと、「なるほど、昨年のこの時季も体調を崩していたのか」「そうか」と妙な安心をさせてくれる。そして最後は、「空元気」。これの計り知れない効用については、いずれ機会があれば。

(奥野恒久)

2011年6月15日水曜日

日中学術交流雑感

坂本 勝

中国との学術交流を振り返ると、1994年8月下旬から9月上旬にかけて「日中行政学交流委員会」の一員
として北京を訪問し、民族飯店での研究会で「日米の公務員制度改革の動向」と題して報告したのが、
学術交流のはじまりでした。* この研究会の終了後、訪問団一行が「中南海」で、日本の内閣官房長官に
相当する国務委員兼国務院秘書長の罗干氏と面談したことなどが懐かしく思い出されます。

 
北京「民族飯店」での日中行政学交流委員会のメンバーと一緒に。

<a href="http://www.policy.ryukoku.ac.jp/blogger/uploads/2011/06/44f3e493cf11239224506f97279ff4432.jpeg">
南京科挙試験場跡資料館にて。


上海の研究会では、復旦大学の林尚立副教授(国際関係公共事務学院の現院長)の「中国の分税制の下での中央と地方関係」と題する報告の終了後、浦東新区を見学しましたが、94年当時の浦東地区はほとんど更地のような状態でしたので、現在の浦東地区の発展ぶりには驚嘆させられます。





訪問先の南京(明時代の都)では、南京城、孔子廟とそれに隣接する科挙の試験場跡などを見学し、**当時の官吏登用試験の問題・解答やカンニング下着などの展示に感激したことが思い出されます。
その後、北京、上海の大学との研究交流を経て、本年3月には、政策学部・政策学研究科と中国の大学との学術交流の予備的話し合いをするために、上海の復旦大学と華東政法大学を訪問する機会がありました。近年、中国の経済・政治の近代化、グローバル化の進展に伴い、中国の大学では、政治学・公共管理学の教育・研究の比重が高まるようになってきています。
2001年のWTO加盟を契機に、国際基準の人材育成を目的として、24の拠点大学に設置された公共管理学修士(MPA)教育コースは―公務員8割・公営企業職員2割の社会人対象―、2010年現在、100の大学において設置されるまでになっています。** このMPA教育コースは、復旦大学では「国際関係公共事務学院」に、また、華東政法大学では「政治学与公共管理学院」に設置されており、本学法学部は、2008年4月同学院との学術交流一般協定を締結しています。
さて、中国の有力拠点大学である復旦大学の「国際関係公共事務学院」との学術交流についてですが、北川先生、金先生とともに同大学院の顧麗梅副教授、陳雲副教授と予備的な話し合いを行い、同大学院の院長林尚立教授と副院長呉心伯教授の同意のもとに、本年秋頃までを目途に学術交流の一般協定を締結する手はずになっています(http://www.sirpa.fudan.edu.cn/)。


復旦大学国際関係公共事務学院の陳・顧先生と北川・金先生と一緒に。


復旦大学 国際関係公共事務学院の院生たちと一緒に。

この話し合いの翌日、同学院の陳雲副教授の受講生たちに、「公務員の人材育成の課題―日米中比較―」と題して講義する機会がありましたが、院生たちのきらきらした目の輝きがいまでも印象に残っています。
次に、中国における法学・政治学の教育研究の有力大学である華東政法大学の「政治学研究院」との学術交流の話し合いについてですが、こちらの方は、親日家の院長李路曲教授と龍谷大学に留学経験のある副院長袁峰教授の意向もあって順調に進展し、本年6月28日に学術交流の一般協定を締結する運びになっています。
 華東政法大学の「政治学研究院」は、一般院生の政治学修士教育を目的として、2008年2月に設立された大学院です。華東政法大学の設立は1952年ですが、その前身は1919年に設立されたミッション系の「聖ヨハネ約翰大学」(St. John's University)です。孫文の妻の宋慶齢、蒋介石の妻の宋美齢姉妹の弟が卒業した大学ということで、中国では名門の伝統校として知られています(http://psi.ecupl.edu.cn/home/index_cn.asp)。
本年4月に発足した政策学部・政策学研究科は、海外の大学との学術教育交流を通じて、地域社会の課題を国際的な観点から解決できる人材育成を目指していますが、学術研究交流に意欲的な華東政法大学「政治学研究院」と復旦大学「国際関係公共事務学院」との間に一般協定を締結することは、日中の学術研究・教育活動の発展にとって非常に有益であると思われます。今後、学術交流協定が絵に描いた餅で終わることがないように、学術交流の実績を重ねていく必要のあることは申すまでもありません。この協定の締結を契機に、海外の大学との学術交流がさらに進展していくように願っています。

* 日中行政学交流については、片岡寛光「日中行政学交流委員会’94年度訪中報告」  『季刊行政管理研究』(1994.12, No. 68)として紹介されている。
** 今から14000年以上前の随時代の587年に成立した科挙制度は、清時代の1904年を
  最後に実施されなくなったが、それから90年経って、日中行政学交流の最中9月に、  公務員試験が初めて実施されている。科挙制度については、宮崎市定『科挙―中国  の試験地獄』(中公新書)が詳しい。
*** 中国のMPA教育については、拙著『行政学修士教育と人材育成』(公人の友社)、   拙 稿「公務員の人材育成の視点」『龍谷法学』(第42巻第4号)で検討している。

石鹸

中森 孝文

石鹸の歴史は紀元前に遡る。日本石鹸洗剤工業会によると、古代ローマ時代には羊を焼いて神に供えるという風習があり、あぶった肉から落ちた羊の脂と木の灰とがまざりあって自然にできた石鹸らしきものは「油をよく落とす不思議な土」として珍しがられたという。確かに、石鹸はなぜ油汚れを落とすのか不思議である。水と油は通常は混ざり合わない。ところが、石鹸は親水基と親油基(疎水基)という水に馴染みやすい性質と油に馴染みやすい性質を併せ持っており、衣類などについた油を水の方に溶かしだして汚れを落とすのだ。水と油のような性質の異なる物質の界面で、その緊張を和らげる働きをしている石鹸は界面活性剤とも呼ばれている。界面活性剤は性質の違うもの同士の仲を取り持つ仲人のような存在なのだ。

京都の三条通高倉を東に入ったところに「京都しゃぼんや」という手作りにこだわる石鹸屋さんがある。干菓子そっくりの石鹸をはじめ、胡麻や黒蜜、生姜といった本物の食材で作ったまるでお菓子のような石鹸は、使うのがもったいない気持ちにさせる。最近では、京都の人気スポットである「とようけ屋山本」の豆乳で作った石鹸や、丹波のワイン醸造家の赤ワイン、宇治の煎茶で作った石鹸など、地域の名産品とのコラボレーション(連携)による石鹸が登場して人気を呼んでいる。なぜ丹波の赤ワインなのかと社長である石鹸職人の大橋氏に聞いてみたところ、自分の納得のいく赤色が、ある特定の丹波の赤ワインでしか出せなかったそうだ。煎茶にしても、アルカリ成分とお茶の成分が混ざり合うと茶色になってしまい、宇治の「かねまた」の煎茶職人である「チャムリエ」の谷口氏のブレンドした煎茶でないと綺麗な緑色にならないらしい。

このようなこだわりの石鹸が話題を呼び、雑誌やTVで紹介される機会が増えたため、大手百貨店などから大口の注文が舞い込んでくるという。ところが、それらをすべてお断りしているそうだ。自分の納得のいく商品を供給するために手作りにこだわっているからだ。

商品があったら売れたはずなのに供給できなかったために利益を逃してしまうことを「機会損失」という。大手コンビニエンスストアでは、この機会損失を最小限にするために、気象予報まで採り入れて品切れを防いでいる。このような視点から京都しゃぼんやを眺めてみると、なんて不合理な経営をしているのかと思わないでもない。ところが、あるTV局が京都の大手タクシー運転手に「紹介したい京都の名所」を尋ねたところ、先斗町と将軍塚の次に京都しゃぼんやが第三位に挙げられたそうだ。大橋氏によると、手作りと京都へのこだわりが結果的に功を奏したのではないかという。手作りであるために、三条のお店でしか販売できず、欲しい人はお店に買いに行くしかない。買いに来てくれた人には、とようけ屋山本やチャムリエ、大原の紫蘇といったコラボレーションの相手の魅力を丁寧に説明するという。石鹸を買いに来た客はその足で豆腐や紫葉漬けを味わいに行くそうだ。つまり、本来なら石鹸屋と豆腐屋、漬け物屋や煎茶業といった全く異なる分野の匠が、石鹸という界面活性剤によって融合しているのである。その結果、顧客に新しい京都の楽しみ方を提供しているのだ。

一方、今の日本の政治を眺めると、水と油の界面ばかりが目立って混ざり合う気配がない。大震災からの復興を願う国民の共通の気持ちが、界面活性剤として機能しても良さそうなのにと思うのは筆者だけではあるまい。

界面活性剤を入れた液体(石鹸水)に息を吹き込むと泡ができる。いわゆるシャボン玉であるが、これは水と界面活性剤のバランスが保たれてはじめて丸い形を維持できる。微妙なバランスが崩れると瞬く間に消えて無くなってしまう。大連立の声すら聞こえるものの、果たして綺麗な丸になるのかどうか疑わしい。

大橋氏にコラボレーションのコツを尋ねた。「本気で地域を良くしたいと思うこと」だそうだ。

2011年6月12日日曜日

痛みへの想像力

深尾 昌峰

東日本大震災は多くの尊い物を一瞬に奪っていった。まずは、被災された全ての皆さまにお見舞いを申し上げたい。私も微力ながら貢献できることをとの一念から定型的な業務のない週末は東北に滞在する事が多くなっている。大きな悲しみを前にしては無力の私ではあるが、少しでも役に立てばといくつかのプロジェクトに携わらせて頂いている。そのため、月曜日からは金曜日までは大学を中心として関西で生活をし、週末は岩手や宮城で過ごすという生活が続いている。

被災地には、「頑張ろう」「一つになろう」と心を奮い立たせたり、「ひとりじゃない」など絆を確認しあうメッセージがあふれている。スローガンとして理解は出来、私も気持ちとしては同じであるが、これらのメッセージが溢れすぎることは違和感を感じる。頑張るということや、一つになろうという外からのメッセージが強く発信されすぎると被災者不在の空気が形成され、強要となってしまう。

そんな中、宮城県の東松島市ボランティアセンターで「ご自由にお取りください」と造花でつくったブーケが置かれていた。その紙には「避難所での関かつでは生花を供えて、ご供養する事が困難だと思います。(中略)ご自由にお持ち帰りください」と書かれていた。美しくラッピングされた造化とメッセージを読んだ瞬間、私はハッとさせられた。私たちは、1万人を越える死者・行方不明者に「未曾有の大災害」と面で捉えてしまいがちであるが、大切な命が失われた悲劇が1万以上あると捉えることも必要である。あのブーケを制作された方の、「弔い」の気持ち、かつ「面」でなく大切な人をなくされた方々、ひとり一人の痛みへの想像力に私自身は大きな気づきを頂いた。

少しずつ、本当に少しずつだが、被災された皆さんが「日常」を取り戻し、一息つける瞬間が来た時に、大きな喪失感に寄り添う支援が必要になってくる。復興の議論が高まってきているが、まちが復興したとしても、個々のこの深い悲しみが癒えることはない。個々の深い悲しみに真に寄り添えるのは、想像力や共感を持ち得る市民同士である。

(「中外日報」寄稿原稿を一部加筆修正)