2013年11月25日月曜日

韓国の臨津閣、臨津江を訪れて

石田 徹

今年の9月15日(日)から17日(火)までLORC(地域公共人材政策開発リサーチセンター)の調査研究のため、韓国を訪れた。10数年前にゼミの卒業旅行で行って以来の久しぶりの訪韓だ。韓国における大学と地域の連携にかかるLINC(Leaders in industry-university Cooperation)事業及び職業資格制度の現状を調査することが目的で、日本との比較において興味深い発見があったのだが、そのことについては別の機会に紹介するとして、今回は調査の合間に訪れた臨津閣、臨津江のこと、そしてそこで感じたことなどを綴ってみる。
臨津閣には、今回の調査において訪問先の選定と通訳をお願いしたLORC研究員の尹誠國さんの義理のお兄さんに車で連れていってもらった。ソウルから車で約1時間、北朝鮮との間の軍事境界線から7kmほどのところにあり、特別な許可なしに外国人を含めて一般市民が北朝鮮に最も近付ける場所である。分断された朝鮮半島の統一を願って設けられた観光地でもある。訪れた日が日曜日であったこともあり、日本の遊園地のように親子づれも多く、平和でのどかな雰囲気を漂わせていた。


しかし、朝鮮戦争(1950~1953年)の際の激しい攻防を思わせる弾痕が残った蒸気機関車が展示され、また捕虜となった兵士が北朝鮮から帰還する時に利用された「自由の橋」もある。臨津閣からすこし離れたところにある鳥頭山展望台にも行き、そこからは臨津江という川をはさんで北朝鮮の農村地帯が一望できたわけだが、我々が訪れた次の日(9月16日)に、展望台からそれほど遠く離れていないところで、南から北へ逃れるために河を渡ろうとした男性が韓国兵に射殺されるという悲惨な事件が起こった。同じ民族でありながら南北に分断されて軍事的に対峙するという日本では想像できない厳しい現実がこの朝鮮半島にはあることをあらためて思い知らされた。
南北の軍事境界線にそって流れる臨津江は、日本ではイムジン河として知られる。2005年に公開された映画「パッチギ」のテーマソングの題名になっていたことから、学生諸君の中でも知る人もいるかもしれない。しかし実をいうと「イムジン河」は、今から45年前の1968年に発売されようとして、その直前に政治的配慮から発売中止となった曲である。元々北朝鮮の歌であったことが影響したのであろう。レコードにはならなかったが、ラジオですでに流されていた歌をその頃よく口ずさんだものであった。「イムジン河水清く、とうとうと流る。水鳥自由に群がり飛び交うよ。我が祖国南の地 想いははるか。・・」と。
イムジン河を歌っていたのが、デビュー曲「帰って来たヨッパライ」が日本で初のミリオンセラー曲となったことで有名なザ・フォーク・クルセダーズであったということはよく知られている。しかし、このグループの中心メンバーであり、その後名だたる音楽プロデューサー、作曲家となった故加藤和彦氏が、グループ結成当時龍谷大学の学生であったことまで知る人はそれほど多くない。ザ・フォーク・クルセダーズには、イムジン河の他にも「あの素晴らしい愛をもう一度」「悲しくてやりきれない」などの名曲があり、最近はとんと行く機会がなくなったが、私のカラオケにおける持ち歌でもある。

コンペに夢を見る

阿部 大輔

デザインの分野では、よく「設計競技」、英語を略してひらたく「コンペ」が開催されます。建築や都市計画、都市デザインの領域も同様で、毎月さまざまなコンペが全国各地で行われています。一般的にコンペでは、ある敷地やテーマ(自由応募のものもあります)のもと、複数の応募者にデザインを競わせ、優秀作品を選びます。

こうしたコンペに積極的にチャレンジしていくことは、大学での学びを深めるためにとても大切です。特に、都市空間のカタチを考える私のようなゼミではなおさらです。

特に地域に入り、フィールドワークを行い、まちづくりの支援活動を行いたいと考えながら勉強をしている学生にとってはなおさらです。

連日連夜、睡眠時間を削りながら取り組んでも、所詮は「机上の空論」かもしれません。ですが、決してそのことに脱力感を持ってもらいたくないのです。どのような政策・取り組みであれ、机の上で学び、そして現場で学び、机上・現場両者の面白さや限界を理解し、その両者を補完的な関係として捉え直すこと。そこからしか、大学という高等機関での学びは始まりません。