2010年12月28日火曜日

60's の物語

松浦 さと子



 賀状を書きながら同級生や自らの生い立ち、学生時代や就職当時を思うことがあり、このあわただしい時期に、2010年だけでなく、およそ半世紀を振り返ることになってしまいました。私は、受験生や大学生のみなさんの親世代でもあります。そこでこのブログに書いてみる気になりました。


 


 私たち60'sは、戦争も学生運動も直接には知らず、高度成長とバブル経済、その崩壊を目の当たりにした世代です。「テレビアニメ」「ファーストフード」「コンビニエンスストア」「テレビショッピング」「クレジットカード」「インターネット」などが新たに社会に出現したときを知っています。その後の変化は、「ひとりでも生きられるほど便利」でも「つながりは希薄」といった形で私たちの暮らしに表れています。


 現在は仕事環境が厳しく、疲れや辛さを励ますことが多くなりました。子ども世代である、今の受験生、大学生に、自らの職業体験に即したアドバイスができず、思い悩んでいる親世代でもあります。過酷な長時間労働でも不安定雇用でもないシゴトを子ども世代に創るために何とかしたい。最近の共通の話題はこればかりです。


 阪神淡路大震災とその後のNPOやNGOの発展するなか、中心となって活動をまとめてきた友人も多く、私もそのささやかな関わりの経験から「地域(のつながり)の再生」、「持続可能性」について大きな学びを得ました。「フェアトレード」「マイクロクレジット」「ワーカーズコレクティブ」「コミュニティビジネス」「コミュニティファンド」など、金融や働き方のスタイルに新しい挑戦を求めた仲間たちもいます。今その最前線を牽引する世代は、60'sのジレンマを越えた70'sたち。大学生たちの世代にリレーされてゆくことを期待し、支えたいと思います。


 身近な人々が受験生の親の役割を果たしていることもあって、この年末年始、親世代のライフヒストリーに耳を傾けることをぜひお勧めしたいと綴ってきました。なぜならば、市場やグローバリゼーションと生活の関わりが、私たちの世代の記憶にはとても具体的に映し出されるからです。特に消費スタイルの世代別変遷は、世帯支出に含まれてしまい、統計ではなかなか表れてこないものですが、これらを生活に取り入れてきた(あるいは拒んできた?)当事者として、60'sはその様子をきっと語ってくれることでしょう。


 


 未来の政策を描くためには、生活様式やまちの情景の様変わりを含む、そこに住む人々自身による記憶の物語が必要です。英国では、物語を語る(story telling)場がコミュニティメディア活動によって開かれ、多くの記録がアーカイブ化されています。その成果として、博物館や歴史館、BBCやチャリティ団体のウエブサイトには、政治家や文化人ら著名人に並んで、たくさんの一般市民の声や写真が展示されています。




スクリーンに映し出される無名の市民のインタビュー ロンドン博物館で

 


 また世代論というものは、ネットの出現で既に無意味、とも言われ始めています。知の共有は世代など超えてしまったからです。それでも、置かれた状況に目をやれば、まだ同世代の共通性は失われていません。受験生や帰省した大学生のみなさんは、御両親の若い時代の物語に耳を傾けることで、その世代や地方特有の価値観や文化をも知る機会になるかもしれません。






ベルファストのFeila FMで     コミュニティラジオ番組の主なコンテンツは住民自身の「物語」



 


 ただ、年末年始に一緒に過ごすのは、家族とばかりではありません。この時期、ひとりで過ごす人々同士をつなぐ催しを支援する友人もいます。

 「孤独を抱き、年末年始(特に、大晦日から元旦にかけて)に1人で過ごしたり家族や親族と一緒にいるのが辛い方に」
「年越いのちの村」
 http://inotinomura.blogspot.com/2010/12/blog-post.html
中心になるのは、80'sだそうです。力強いことです。

 家族でなくても良いのです。この年末年始、対面の「傾聴」を試みるひとときを過ごしてみてはいかがでしょう。
 今年最後のブログ担当ということで、欲張りなエッセイになってしまいました。それでは、いよいよ来年は「龍谷大学政策学部」でお目にかかれますように。どうぞよいお年をお迎えください。

2010年12月21日火曜日

今はどんな時代か

堀尾 正靱

19歳のころの私にとって、「虚無」は親しいものでした。私たちの青春時代には、まだ、たくさんの壮年の人々や若者たちが亡くなった「大きな戦争」の残響が耳の中に強く残っていましたし。それだけでなく、その戦争よりも前の20世紀初頭、芸術家たちが、「リアリティ」を探求してまっしぐらに進み、既成の権威を打ち破りつづけていた時代のことが、思想の統制から自由になった戦後の日本に、怒涛のように流れ込んでいたのです。それがかえって問題を難しくしていました。実際、芸術家たちは飽くことなくすごいことをやりつづけてきました。よく知られている印象派(モネなど)もそのはしりで、それまでの宗教画や室内画の絵画空間を否定し、光と自然と日常の中に私たちを解放したのですが、そこに留まっていれるものではありませんでした。その後、冒険は、後期印象派(セザンヌ、ゴッホほか)、立体派(ピカソほか)、野獣派(マティスほか)、ダダ(ツァラほか)、シュールレアリスム(ブルトン、ダリ、エルンストほか)と続きました。もちろん今も続いてはいますが(ただし、最近の現代芸術には、あのころのような過激さはもう見られないように思います)。

芸術の世界だけでなく、すでにこの300年以上にわたって、近代を構築してきた強い否定的精神。宗教裁判の後、ガリレオは、なお「それでも地球は回っている」と言いました。以来、過去の権威への系統的な否定が続きます。「真理とは何か」の問題を「真理探究の方法」の問題に置き換えて、人間が、神だのみでなく、自分の力を信じて、一歩一歩進めるようにしてしまった「方法叙説」のデカルト。自由で対等な交換の中に搾取の仕組みがありうることを暴いたマルクス。人間の意識や行動の心理的な背景を白日の下にさらしたフロイドなどなど。あのころの私は、もう、すべての知性の展開の試みがおこなわれ、その果てに来ていたような気分のなかにいました。そんな精力的な西欧文明の展開のあげくに、なぜ、「夜と霧」のような人間性の否定と希望のない殺し合いを避けることができなかったのか。それが私にとっての、問題の始まりでした。

そしてさらに、家父長制的な封建的関係の残った中での日本の軍国的な近代化の中にも開花した、大正デモクラシーや、白樺派や、童謡・童話雑誌「赤い鳥」。そして、そういった都会での西欧かぶれと区別できないようなものではない土着的かつ近代的な精神を目指した宮澤賢治。その彼の眼の前に展開していた、地租改正以来の、農民のすさまじい困窮化。私は芸術的な感性をも動員して「農」をつくりかえる宮澤賢治の道に憧れました。しかし、そのころ、時代は変わり、わが国は高度成長に突入、過去の思索者たちが直面していたものとは全く異なる新しい時代状況が展開していました。そんな中で、地味な大衆の中に身を置く技術者になるべく、私は工学部へと進学したのです。それが1961年です。恥ずかしながらもうすぐ50年です。

自己紹介が長くなってしまいましたが、いま、全く新たな様相のなかに、時代の徹底的な閉塞感と合わせて、新しい時代の息吹が聞こえています。閉塞感だけしか見えない人々の一部は、一層の効率化や、極度の過疎化や財政破綻の中にある地方の切り捨て(撤退)を論じたり、生活の破綻のなかで犯罪に加担したり、いろいろな憂うべき暴走が見られます。しかし、時代は変わります。事実、近代のあらゆる知の冒険の延長線上に、この50年、拡大に次ぐ拡大を遂げてきた工業化社会とその技術的システムは、公害、廃棄物問題、生物多様性の破壊、など、環境に関連する数多くの本質的問題に直面してきました。そしてこの40年ほどの間に、専門家任せではない市民参加型の技術社会を作らなければならないという市民的な取り組みが多様に展開してきました。

しかも、先進国の工業化社会の問題はそのレベルにとどまらなかったのです。快適な技術をまとった社会が、あと50年もすれば石油という有限の、そして地球温暖化・気候変動現象の制約のため、二酸化炭素を80%削減しなければならないという、未曽有の壁にぶつかっています。途上国の中に入れられている中国も、すでに、現在のCO2発生量を2050年にむけて30%以上削減しなくてはならない、というところにまで来ているのです。これらは、いまの時代が、単なる閉塞の時代ではなく、旧来のシステムの崩壊と新しいシステムの到来という怒涛の時代なのだということを示していると私は思います。

私の言葉でいえば、「石油漬け近代の作り直し」の時代が来ようとしています。それは、市民生活から、企業活動、行政、国政のすべての段階で全く新しい課題を私たちに突きつけています。ヨーロッパ諸国は、西欧近代の伝統であった否定的かつ自己改革の精神で、いろいろな先進的取り組みをしています。しかし、わが国にはわが国の気候風土と歴史とわが国なりの変革の精神があります。龍馬以来の170年近い日本の近代化の歩みを振り返り、わが国の課題を総点検しつつ、新たな政策体系を構築し、実践していく、私の19歳の時よりも、さらに困難かつ素晴らしい(!)時代が皆さんを待っているのです。

今はどのような冒険の時代か?

堀尾 正靱

19歳のころの私にとって、「虚無」は親しいものでした。私たちの青春時代には、まだ、たくさんの壮年の人々や若者たちが亡くなった「大きな戦争」の残響が耳の中に強く残っていましたし。それだけでなく、その戦争よりも前の20世紀初頭、芸術家たちが、「リアリティ」を探求してまっしぐらに進み、既成の権威を打ち破りつづけていた時代のことが、思想の統制から自由になった戦後の日本に、怒涛のように流れ込んでいたのです。それがかえって問題を難しくしていました。実際、芸術家たちは飽くことなくすごいことをやりつづけてきました。よく知られている印象派(モネなど)もそのはしりで、それまでの宗教画や室内画の絵画空間を否定し、光と自然と日常の中に私たちを解放したのですが、そこに留まっていれるものではありませんでした。その後、冒険は、後期印象派(セザンヌ、ゴッホほか)、立体派(ピカソほか)、野獣派(マティスほか)、ダダ(ツァラほか)、シュールレアリスム(ブルトン、ダリ、エルンストほか)と続きました。もちろん今も続いてはいますが(ただし、最近の現代芸術には、あのころのような過激さはもう見られないように思います)。

芸術の世界だけでなく、すでにこの300年以上にわたって、近代を構築してきた強い否定的精神。宗教裁判の後、ガリレオは、なお「それでも地球は回っている」と言いました。以来、過去の権威への系統的な否定が続きます。「真理とは何か」の問題を「真理探究の方法」の問題に置き換えて、人間が、神だのみでなく、自分の力を信じて、一歩一歩進めるようにしてしまった「方法叙説」のデカルト。自由で対等な交換の中に搾取の仕組みがありうることを暴いたマルクス。人間の意識や行動の心理的な背景を白日の下にさらしたフロイドなどなど。あのころの私は、もう、すべての知性の展開の試みがおこなわれ、その果てに来ていたような気分のなかにいました。そんな精力的な西欧文明の展開のあげくに、なぜ、「夜と霧」のような人間性の否定と希望のない殺し合いを避けることができなかったのか。それが私にとっての、問題の始まりでした。

そしてさらに、家父長制的な封建的関係の残った中での日本の軍国的な近代化の中にも開花した、大正デモクラシーや、白樺派や、童謡・童話雑誌「赤い鳥」。そして、そういった都会での西欧かぶれと区別できないようなものではない土着的かつ近代的な精神を目指した宮澤賢治。その彼の眼の前に展開していた、地租改正以来の、農民のすさまじい困窮化。私は芸術的な感性をも動員して「農」をつくりかえる宮澤賢治の道に憧れました。しかし、そのころ、時代は変わり、わが国は高度成長に突入、過去の思索者たちが直面していたものとは全く異なる新しい時代状況が展開していました。そんな中で、地味な大衆の中に身を置く技術者になるべく、私は工学部へと進学したのです。それが1961年です。恥ずかしながらもうすぐ50年です。

自己紹介が長くなってしまいましたが、いま、全く新たな様相のなかに、時代の徹底的な閉塞感と合わせて、新しい時代の息吹が聞こえています。閉塞感だけしか見えない人々の一部は、一層の効率化や、極度の過疎化や財政破綻の中にある地方の切り捨て(撤退)を論じたり、生活の破綻や犯罪への加担したり、憂うべき暴走に走っています。しかし、近代のあらゆる知の冒険の延長線上に、この50年、拡大に次ぐ拡大を遂げてきた工業化社会とその技術的システムは、公害、廃棄物問題、生物多様性の破壊、など、環境に関連する数多くの本質的問題に直面してきました。そしてこの40年ほどの間に、専門家任せではない市民参加型の技術社会を作らなければならないという市民的な取り組みが多様に展開してきました。

しかも、先進国の工業化社会の問題はそのレベルにとどまらなかったのです。快適な技術をまとった社会が、あと50年もすれば石油という有限の、そして地球温暖化・気候変動現象の制約のため、二酸化炭素を80%削減しなければならないという、未曽有の壁にぶつかっています。途上国の中に入れられている中国も、すでに、現在のCO2発生量を2050年にむけて30%以上削減しなくてはならない、というところにまで来ているのです。これらは、いまの時代が、単なる閉塞の時代ではなく、旧来のシステムの崩壊と新しいシステムの到来という怒涛の時代なのだということを示していると私は思います。

私の言葉でいえば、「石油漬け近代の作り直し」の時代が来ようとしています。それは、市民生活から、企業活動、行政、国政のすべての段階で全く新しい課題を私たちに突きつけています。ヨーロッパ諸国は、西欧近代の伝統であった否定的かつ自己改革の精神で、いろいろな先進的取り組みをしています。しかし、わが国にはわが国の気候風土と歴史とわが国なりの変革の精神があります。龍馬以来の170年近い日本の近代化の歩みを振り返り、わが国の課題を総点検しつつ、新たな政策体系を構築し、実践していく、私の青春時代以上に、困難かつ素晴らしい時代が皆さんを待っていると思います。

2010年12月19日日曜日

誰もが開拓者

堀尾 正靱

古典的な既成観念を打ち砕く知的冒険の大きなながれが「近代」というものを作り上げてきました。天動説に固執する教会から宗教裁判を受け、「それでも地球は回っている」と言ったガリレオ・ガリレイ、真理に近づいて行くことが重要でありそのためには正しい「方法」が必要だと、問題を方法に還元し、神を畏敬する時代から人間の力に期待する時代をひらいたデカルト、経済社会と支配の構造に迫ろうとしたマルクス、心の真実に迫ったフロイドやユング、戸外の光や存在の真実に迫りつづけた、モネ、ゴッホ、ピカソ、ダリなどの画家たち。人間の知の大きな前進にもかかわらず、人間というものの戦争(第1次、2次大戦)の記憶、

2010年12月17日金曜日

ブータン王国を垣間見て

富野 暉一郎

夏期休暇を利用して、かねてから行きたかったブータン王国に調査に行きました。



ブータンになぜっ?と思うでしょうね。

実は13年前に自治体国際連盟が行った自治体国際協力の研究プロジェクトに参加した際に、島根県三隅町(現浜田市)という小さな町が、
ブータン政府と協定を結んで、日本の手透き紙の技術移転を行っている事例の調査を担当したことがありました。
しかし当時はブータンが半鎖国状態であったために入国ができず、現地調査ができなかったことがずっと気になっていたのです。
それが今年の春、JICAの研修の際にブータンから派遣された政府職員に会い、その方のお世話で念願の訪問調査が実現しました。

ヒマラヤの懐にある神秘的な仏教国、国民総福祉量(GNH)政策で世界的に有名な王国、
徹底的な環境保護・生物多様性保護を推進している特異な開発途上国、などなど、
今やブームと言えるほど多くの人々を惹きつけているブータンですが、その実態はどうなのでしょうか。

短い滞在期間ではありましたが、財政・GNH政策・環境政策・地方制度・教育システムなどについて政府関係者などから聴取するとともに、
地方の各地域を訪問して、地方行政の実態、宗教と人々の日常生活の関係、各地の環境と自然の状況などを視察して、
ごくうわべだけではありますがブータンの一端に触れることができました。

私の結論は、“この国は本格的な総合的地域研究を展開するに十分値する”というものです。

ところでこの旅でびっくりするような出会いがありました。
13年前に調査した日本の手漉き紙技術移転の成果が、しっかりと首都ティンプーの紙すき工房として生き残っているだけでなく、
その工房でお会いした社長さんが、まさに初めてブータン政府から三隅町に派遣された元政府職員だったのです。
イヤー本当に感激しました。何か目に見えない糸で結ばれてここにたどり着いたのだという感じでしたね。





こんな出会いがあったブータン王国との再会ですが、
早速11月にはブータン政府国家環境委員会の高官に龍谷大学でブータンのGNH政策と環境政策について講演をしていただくなど、
どうやらこれからもお付き合いが続きそうです。

2010年12月15日水曜日

まちづくりにおける人材育成

井上 芳恵

2回目の投稿となります。
もう数カ月前になりますが、前回は「地域づくりインターン事業」について少し紹介しました。
今回は、熊本県旧宮原町(現氷川町)での取り組みを紹介したいと思います。

2001~2006年まで、熊本の短期大学で住居学、インテリアなどを教えていましたが、
研究の一環で、中心市街地・商店街の活性化に取り組む自治体にヒアリングに行っていたところ、
住民参加のまちづくりに取り組む、宮原町と出会い、その後5年間どっぷりと関わることになりました。

宮原町は、熊本市から南約30㎞に位置し、2005 年に隣町と合併し氷川町となりました。
合併前の人口は約5200人、面積約10平方キロメートル(3㎞×4㎞)と、とても小さな町でありながら、
今から20年ぐらい前の平成2年頃から若手職員や大学生、コンサルタントらが試行錯誤しながら、
住民参加型まちづくりに取り組んでいました。

町の10年間の計画を定める総合振興計画づくりでは、14の旧町村ごとに地区担当職員が配置され、
地域住民が参加する地区別会議を何度も開催し、様々なワークショップの手法も活用しながら、
職員、住民総参加で各地区ごとの将来計画を取りまとめました。
その計画に基づき、環境形成・保全事業、まちづくり拠点整備、中心商店街活性化、土地利用調整・保全に関する条例づくりなど、
国や県の補助金もうまく活用しながら将来計画にもとづいたまちづくりが進められてきました。

  

2010年12月12日日曜日

「消費」すること、「所有」すること

白石 克孝

私は音楽や映画の再生機器が大好きで、相当に古い機械も使っています。絶滅危惧種であるオーディオマニアならば、こうした機器の置く場所をほんの少し変えただけで、再生パフォーマンスが大きく変わることを知っています。使いこなしたという歴史こそが、これらの機器を私が「所有」した証です。モノを「所有」する実感や喜びは、モノとの関わりの物語があって、初めて生まれるのでしょう。

先祖の代から伝わる家具、とても年季の入った道具や日用品、そういったものに出くわしたことはありませんか。私は旅先などで偶然にそうしたものに出くわしたとき、使い込まれたもの特有の美がそこにあるような気持ちを抱きます。元々の作られた時にはおそらくなかったもの、時間と共に加えられた何かが、その美の要素になっていると思うのです。それは真に「所有」されたモノにだけ備わっている美です。

誰かが利用できるようにするために、作った人々が何らかの価値を加えて、道具ができあがったと考えてみましょう。私たちが短期間に使い終えてしまった道具は、ただの廃棄物になります。道具の目線で見れば、私たちは作った人々が加えた価値を「消費」しただけで、本当の所有者にはなれなかったと言われそうです。

街並や景観についても同じことが言えそうです。新しい街であろうと、伝統的な街であろうと、その地に息づく人々が建物あるいは街そのものに働きかけることなしに、すばらしい街並はうまれません。景観はそれを愛でる風土があっては、やっとはじめて保全の取り組みが実ります。つまり街並や景観を「所有」することこそが、まちづくりの原点であると思うのです。





写真は、私の生まれ故郷の名古屋の有松という所です。文化財でない普通の古い街並を保全したパイオニアの街です。私の小学校の同級生達が、25年かけて街の再生に取り組んできました。今年ようやく、電柱の地中化にこぎ着けました(工事直前と直後の写真です)。