2011年6月12日日曜日

痛みへの想像力

深尾 昌峰

東日本大震災は多くの尊い物を一瞬に奪っていった。まずは、被災された全ての皆さまにお見舞いを申し上げたい。私も微力ながら貢献できることをとの一念から定型的な業務のない週末は東北に滞在する事が多くなっている。大きな悲しみを前にしては無力の私ではあるが、少しでも役に立てばといくつかのプロジェクトに携わらせて頂いている。そのため、月曜日からは金曜日までは大学を中心として関西で生活をし、週末は岩手や宮城で過ごすという生活が続いている。

被災地には、「頑張ろう」「一つになろう」と心を奮い立たせたり、「ひとりじゃない」など絆を確認しあうメッセージがあふれている。スローガンとして理解は出来、私も気持ちとしては同じであるが、これらのメッセージが溢れすぎることは違和感を感じる。頑張るということや、一つになろうという外からのメッセージが強く発信されすぎると被災者不在の空気が形成され、強要となってしまう。

そんな中、宮城県の東松島市ボランティアセンターで「ご自由にお取りください」と造花でつくったブーケが置かれていた。その紙には「避難所での関かつでは生花を供えて、ご供養する事が困難だと思います。(中略)ご自由にお持ち帰りください」と書かれていた。美しくラッピングされた造化とメッセージを読んだ瞬間、私はハッとさせられた。私たちは、1万人を越える死者・行方不明者に「未曾有の大災害」と面で捉えてしまいがちであるが、大切な命が失われた悲劇が1万以上あると捉えることも必要である。あのブーケを制作された方の、「弔い」の気持ち、かつ「面」でなく大切な人をなくされた方々、ひとり一人の痛みへの想像力に私自身は大きな気づきを頂いた。

少しずつ、本当に少しずつだが、被災された皆さんが「日常」を取り戻し、一息つける瞬間が来た時に、大きな喪失感に寄り添う支援が必要になってくる。復興の議論が高まってきているが、まちが復興したとしても、個々のこの深い悲しみが癒えることはない。個々の深い悲しみに真に寄り添えるのは、想像力や共感を持ち得る市民同士である。

(「中外日報」寄稿原稿を一部加筆修正)