2011年6月23日木曜日

質問 『世の中で「これだけは許せない」ことは何ですか?』

的場 信敬

タイトルにあるこの質問、実はゼミなどの最初の講義で、学生によく訊く質問です。何の根拠もないですが、例えば「好きなこと」を聞くよりも、その人の内面が垣間見えるような気がするからです。また、「世の中で」と訊くことで、その人の「世の中」がどのくらいのスケールに渡っているのか、も感じることができます。

例えば今年の学生では、「歩きながらタバコ吸う奴が許せない」という子がいましたが、この子は恐らくモラルに敏感で社会正義を尊ぶ子だな、とか、「自分が好きなアイドルを馬鹿にするのは許せない」という子は、平和で幸せな日々を過ごしているなあと思いつつ、そこまで一途に好きな人やコトがあるのは素晴らしいな、とか「勝手に」考えてます。また、「わからないことをほっておくのが許せない」と、「世の中」の前にまず自分を顧みるような責任感の強い子もいて、教員としてこれまた「勝手に」頼もしく思ったりもします。あくまで「勝手に」です。この質問だけで学生のことがすべてわかるわけではありませんから。

一見なんてことのないこの質問、実は「政策」のお話と関係しないわけでもありません。「許せない=怒り」の感情が政策を変えていくことはしばしばあります。例えば、国の生ぬるい対策に業を煮やし、より厳しい環境政策を検討する地方政府や、行政の十分でない対応に怒りを覚えて、NPOや市民が自分たちで活動を展開し、それが行政の新たな政策に結びつく、といった例です。後者で分かりやすいのは、1995年の阪神淡路大震災での市民活動団体の活躍が契機となった1998年のNPO法制定や、今回の新NPO寄付税制を含んだ税制改正法案の成立でしょうか。

それにしても日本政治の現状はひどいですね。現在の国民の「怒り」の多くは、この政治と政治家に向けられているのでしょうか。もちろん、政治家を選ぶのは私たち国民ですから、当然私たちにも責任があるのは忘れてはいけませんが。いずれにしても、「怒り」があるうちは、行動の原動力になる分まだ良いですが、一番怖いのは、「怒り」を通り越して「呆れ」そして「無関心」になることだと思います。「無関心」は恐らく何も生み出さないでしょうから。学生の社会や政治への「無関心」を少しでもなくしていくこと、一教育者の私ができる数少ない社会貢献のひとつだと思っています。

ちなみに、私の現在の「これだけは許せない」ことは、このところの心身両面の不安定さからくる自分の覇気のなさです。奥野先生のお言葉を借りれば「六月病」でしょうか(2つ前の先生のブログ参照)。今はこれへの「怒り」を原動力に何とか気合を入れなおそうと画策しているところです。あるいは、奥野先生の解決策を自分も試してみようかな?