2012年4月10日火曜日

福島から/「宙吊りの日常性」を生きる人々

大矢野 修

全長500キロにおよぶ巨大地震と大津波、そこに福島第1原発の過酷事故が複合増幅した東日本大震災からはや1年が過ぎました。

 偶然でしたが、3月末から4月はじめにかけ、福島へ行く機会がありました。目的は、根こそぎ家郷と生活を奪われ、1年が経過してもなお生存の危機の渦中にある福島の人々の錯綜する思いに耳を澄ますこと、その1点にありました。行き先は、原発から30キロ~45キロに位置するにもかかわらず、高線量の放射能汚染により計画的避難区域に指定され、全村避難を強いられた飯館村の人たち、さらに村役場が仮設されている福島市の飯野町でした。また福島市を拠点に、子供たちを放射能から守る運動を展開されているNPOの方々にも会うことができました。

飯館村は阿武隈高地の北端の山あいに位置する人口6000人の小さな村です。豊かな自然に恵まれ、「日本で最も美しい村」の一つに数えられていますが、過去に幾度も冷害に苦しんできた歴史をもっています。こうした苦い経験をふまえ、主産業である農業は米作だけでなく高原野菜、葉たばこ、リンドウなどの花卉、酪農など複合経営が特徴的です。また「までぇライフ」をスローガンに、村人の自治する力をより合わせ、長年にわたり個性的な村づくりをおこなってきたことでも知られる村です。その誇りが下地にあって、飯館村は平成の大合併に与せず、自立の道を選択してきました。なお「までぇ」とは、漢字では「真手」と書くそうですが、地元では「大事に最後まで使い切る」という意味をもち、そこから「丁寧な」「誠実な」といった意味にも使われているようです。

現地でうけた印象は、一言でいえば「絶望した後の取り戻された日常性」という表現がぴったりのものでした。この言葉は、ある雑誌で知った、医師の山田真氏(「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク代表」)の発言から引用したものですが、生存を根底からおびやかされ、もはや元の暮らしの復元などありえないことを思い知らされた中で、いわば「宙吊り状態」のまま日常生活を強いられている人たちの過酷な状況を的確にいいあてているように思います。

いま飯館村では、村長を先頭に「二年で帰村」にむけ、復興の努力がなされています。村民だれしも、そのことを望まない人はいないはずです。しかし、長引く避難生活にある意味慣れはじめた村民の間には様々な思いが交錯し、「早く除染して戻りたい」という意見があるいっぽうで、「あんなに線量の高いところにとても帰れない、帰りたくない」という意見もあり、村民同士、また村民と村行政の間に、亀裂が生じはじめていることも確かです。

新聞紙上で定期的に福島県各地の放射線量のデータが出ています。4月3日の新聞(朝日新聞)によれば、飯館は0・976マイクロシーベルトとなっています。私たちも4月1日に、飯野町の方に案内されて飯館村に入りましたが、村役場前の花壇に設置された放射線モニターでも、これに近い数値を確認することができました。けっして低い数値ではありませんが、留意しなければならないのは、このデータは地面から1メートルの距離で採取された数値だということです。私たちがもっていた線量計を地面すれすれの個所におくと、それより高い数値になりましたが、幼児にとっては、この地点の数値を基準にして生活できるか否かの判断がされるべきです。また固定されたモニターから10メートルほど離れた地点で測れば、これまたモニターより高い数値が出てきます。放射線の分布は均一ではなく、時間、場所、日によっても自在に変化します。ここに目に見えない放射能の怖さの一端を知ることができます。

私たちは飯館村で最も高い数値の出る長泥地区に案内されましたが、その途中、車の中で急速に上昇していく数値にあらためて、事の深刻さを思い知らされました。下車すると、線量計は振り切れてしまいました(毎時10マイクロシーベルト)。

物音ひとつせず、しーんと静まり返ったあたりの静寂。しかしその一方で、今にも住民がぬっと顔をだしてきそうな、まだ生活の余韻をかすかに残している家々のたたずまい。この非日常と日常が入りまざったような異様な光景をどう表現すればいいのか。言葉を見つけ出すこともできず、ただただ佇むばかりでした。

話をうかがいながら、避難した人々の「宙ずりの日常性」は、行政不信、専門家不信、さらにマスコミ不信によって倍加されている様子が浮き上がってきます。原発事故直後からはじまる政府、福島県による安全キャンペーンとそれを報じるマスコミ、また、それを背後から支える専門家と称する人たちによる「ただちに健康に影響はない」と断言する言説に、福島の人々は安心を得るどころか、かえって物理的、精神的抑圧が嵩じている印象をつよく受けました。

事実、飯館村では、この「安全宣言」に引きずられ、全村避難の時期が大幅に遅れ、避難が終了したのは8月上旬でした。その間4、5カ月、飯館村の人々は大量の放射線にさらされ生活していたことになります。

行政、専門家への不信が募れば、あとは住民自身の自己防衛に頼らざるをえません。しかし自己防衛とは、具体的には自主的に避難・移住するか、踏みとどまるべきかの決断を一人ひとりに迫ることを意味します。その決断がもたらすものは、三世代同居が多い飯館村が典型ですが、いっぽうで家族の分散を、他方で、自主避難した人たち(家族)と避難できない人たちの間を引き裂き、妬みや嫉妬という感情を呼び込みます。

人々はそうした亀裂をおそれて、お互いホンネで語り合うことを避けようとする機制が働いているようにも見えました。故郷を去る人残る人をとわず、非日常を日常として生きていくために下さざるをえなかった一人ひとりの苦渋の決断が、放射能による外からの分断にくわえ、地域社会の内側から住民相互の絆を分断する事態を招くとすれば、私たちはその状況をどのように理解すべきなのでしょうか。聞き取りに応じてもらって一人が、この内と外からの分断に触れながら発した「私たちは難民です」という言葉が、いまなお、ぐさりと胸を突いてきます。

こうした過酷な現実をまえに、私たちは何ができるのか、何をなすべきなのか。わずか3日間の福島行でしたが、解答のない、重い宿題を背負ったまま、旅はいまも続いている、それが偽らざる感想です。

最後に、参考のため、入手しやすい文献をいくつか紹介しておきます。

千葉悦子/松野光伸『飯館村は負けない――土と人の未来のために』(岩波新書)800円。小澤祥司『飯館村――6000人が美しい村を追われた』(七つ森書館)1800円。

長谷川健一『証言・奪われた故郷――あの日、飯館村で何が起こったのか』(オフィスエム)1300円。

「現代思想」3月号特集「大震災は終わらない」(青土社)1300円。