2013年3月8日金曜日

お水取り

中森 孝文

 今年の冬はことのほか寒く、休みの日なども家にこもりがちだった。そのせいか若干体力も落ちて来た。おまけに胸の辺りの筋肉がしぼみ代わりに腹部の脂肪が存在感を表し始めた。
見かねた女房に、東大寺のお水取りに行かないかと奨められた。なんでも内陣を特別に参拝できるらしい。当初、寒空に松明(たいまつ)の火を見に行くことに対して乗り気ではなかったが、日頃から地域資源(地域の無形の強み)の重要性を説いているくせに、奈良県出身でありながらお水取りのことを何ら知らないことに引け目を感じたことから、気合いを入れて参加することにした。内陣を参拝するにあたり事前にお水取りについて学ぶ機会もあった。
お水取りとは東大寺で執り行われる修二会(しゅにえ)のことである。修二会とは旧暦の二月に厳修する法会のことであり、東大寺に限らず各地の寺で行われている。
 東大寺の修二会がなぜお水取りと言われるのであろうか。修二会の本行は上七日、下七日の14日間行われる(前行の別火:2月20日〜28日と、満行:3月15日も含めると14日以上になる)。本行の12日目に閼伽井屋(あかいや:別名「若狭井」)から水を汲み、二月堂の十一面観音に供えることから「お水取り」と呼ばれるようになったようだ。
 この水に関するストーリーも語り継がれている。日本では神と仏は近い存在であり、修二会では神名帳の奉読がなされる。すなわち日本中の神々の名前を読み上げるのである。すると各地の神が集い修二会の行法をご覧になるというのである。その昔、若狭の神である遠敷(おにゅう)明神が集いに遅れてしまった。遠敷明神は釣り好きであり、どうやら釣りに夢中になって集いに遅れてしまったらしい。それを詫び、若狭のおいしい水を送ると約束したようだ。すると、二月堂の近くの閼伽井屋から水が湧き出たという。その水(香水)をくみ上げ二月堂の観音様にお供えするのである。この香水は、今でも福井県の若狭で3月2日に祝詞ともに川に注がれる。水は10日間かけて東大寺の若狭井に湧き出るとか。だから毎年3月12日に「お水取り」がなされるのだ。
 また、お水取りといえば松明が有名だ。それだけを見に訪れる観光客も多い。修二会の本行は1日を日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝の六時に分け、正午の食堂作法とよばれる食事(唯一の食事)から始まる。そして初夜の行法にむけて練行衆(僧侶)が二月堂に上堂するのが夜の7時であり、練行衆の道明かりとして松明が焚かれる。10人の練行衆のために、松明が10本(注※)焚かれるのだが、役割を終えた松明は童子が火を消すために二月堂の舞台で火の粉を払い落とす。それが奇麗だということでお水取りの有名なシーンとなったのだ。
 多くの見物客はこの松明が終わると帰ってしまうが、本行の行事はそこから深夜まで続く。今回、その行事を行っている内陣を参拝させてもらった。(残念ながら内陣まで進めるのは男性だけだ。)参拝者は途中に帰ってもかまわないが、せっかくの機会なので1時間程度、正座して行を見た(正確には薄い布で仕切られた向こうの練行衆の陰を見ながら法要の様子を聴いた)。外の気温は0℃近く、凍てつくような寒さであった。お堂の中ももちろん寒い。ところが不思議なことに正座をしはじめてしばらくするとあまり寒さを感じなくなった。東大寺の修二会の目的は十一目悔過(じゅういちめんけか)といい、二月堂の十一面観音に対して懺悔するために行われる。全ての衆生の様々な過ちを懺悔する(全ての生き物の繁栄を願う)のだ。その十一面観音は厨子の中に大観音、小観音として安置され誰も見た事がない。東大寺の関係者ですら見ることができない絶対秘仏だとか。
 その法要の中にあって、競争、カネ、欲、焦り・・・それらとは隔絶された世界に放り込まれたような不思議な気分になった。たかが1時間にすぎないが「無の境地」を垣間みた気がした。
 東大寺の修二会は大仏開眼の752年から行われており、世界で最も長く続けられている宗教行事「不退の行法」(何が起こっても続ける行事)らしい。第二次世界大戦中も多くの僧侶たちが招集される中、年配の僧侶が練行衆となって続けたそうだ。江戸時代には二月堂が焼失してしまった時期があるが、その時は三月堂で修二会を行ったという。それほど、続けることに重きを置いている。なぜならそれは「全ての生き物の繁栄を願う」行事だからだ。
世の中にはいかに短期間で利益を得るのかを競っている人たちが多い。それが経済の発展に貢献している面があることも事実だろう。しかし、その一部の人の富の裏側で犠牲になっている人や動物、自然も少なくない。便利さだとか合理性の追求を止めることは難しいかもしれない。それでも、ものごとの価値を常に短期間の尺度で見るのではなく、長期の視点から見直すことも万物の繁栄にとってときには必要だろう。短期間に為替相場が動いたとか株価が上昇したということもたしかに大事だ。ただ、人類や生物、地球の長期的な存続について自分の生き方をふりかえり懺悔してみることも必要ではないか。特定の情報を鵜呑みにしたり特定の情報ソースだけを信じるのではなく、日頃からものごとを多面的に見て、自分の力で判断できるようにせねばならない。それには日頃の情報から隔絶された世界で自分の生き方を見つめ直してみるのもよいのかもしれない。

注※)練行衆は11人だが、位の一番低いものは明かりの準備などのために既に二月堂に入っていることから、10人分しか焚かれない。12日には唯一11人が同時に上がって行くために、この日だけ11本の松明が焚かれる。また、14日には、沢山の行事が詰まっているために、10人の練行衆の上って行く間隔が狭い。このため、お尻に火がつきそうなので「尻付け松明」とも呼ばれる。また、間隔が狭いため舞台で10本の松明が同時に火の粉を落とす。このため壮大な光景が見られる。