2010年12月12日日曜日

「消費」すること、「所有」すること

白石 克孝

私は音楽や映画の再生機器が大好きで、相当に古い機械も使っています。絶滅危惧種であるオーディオマニアならば、こうした機器の置く場所をほんの少し変えただけで、再生パフォーマンスが大きく変わることを知っています。使いこなしたという歴史こそが、これらの機器を私が「所有」した証です。モノを「所有」する実感や喜びは、モノとの関わりの物語があって、初めて生まれるのでしょう。

先祖の代から伝わる家具、とても年季の入った道具や日用品、そういったものに出くわしたことはありませんか。私は旅先などで偶然にそうしたものに出くわしたとき、使い込まれたもの特有の美がそこにあるような気持ちを抱きます。元々の作られた時にはおそらくなかったもの、時間と共に加えられた何かが、その美の要素になっていると思うのです。それは真に「所有」されたモノにだけ備わっている美です。

誰かが利用できるようにするために、作った人々が何らかの価値を加えて、道具ができあがったと考えてみましょう。私たちが短期間に使い終えてしまった道具は、ただの廃棄物になります。道具の目線で見れば、私たちは作った人々が加えた価値を「消費」しただけで、本当の所有者にはなれなかったと言われそうです。

街並や景観についても同じことが言えそうです。新しい街であろうと、伝統的な街であろうと、その地に息づく人々が建物あるいは街そのものに働きかけることなしに、すばらしい街並はうまれません。景観はそれを愛でる風土があっては、やっとはじめて保全の取り組みが実ります。つまり街並や景観を「所有」することこそが、まちづくりの原点であると思うのです。





写真は、私の生まれ故郷の名古屋の有松という所です。文化財でない普通の古い街並を保全したパイオニアの街です。私の小学校の同級生達が、25年かけて街の再生に取り組んできました。今年ようやく、電柱の地中化にこぎ着けました(工事直前と直後の写真です)。