2011年1月11日火曜日

思うまま、気ままに

村田 健三郎

ブログに投稿するのは、まったくの初めて。思うまま、気ままに書いていきます。

 高校3年の三者進路面談時、何も考えていなかった私は、担任の一言に憤り、体育大学への進路を決断。地元の大学か東京の大学か、亡き父の一言で東京へ。大学入学式前日、入寮予定で挨拶に行くとなぜか空手部、入部を決断するも、7月に退部を決断し下宿生活へ。3帖一間、窓を開けると苔のある庭。退部時に体育学部で部活動を止めた者は大成しない、研究室に来いと恩師の一言。大学2年の春、研究室を訪ねると快く受け入れてくれ、以後なぜか下宿・研究室・授業が生活の場に。大学4年、大学院を受験しろの恩師の一言で受験、進学。大学院修了、しかし就職なく、東京都杉並区教育委員会社会体育課でアルバイト生活。約2年、通勤電車にもまれる生活を送る。およそ27年前、恩師の龍谷大学に応募するかの一言で、応募し着任。

 このような私が、チーム政策の一員に。杉並区で『あおぞら体育指導委員』養成の企画立案で区民サービスに関わった経験を活かせるのか。龍大着任後に名古屋市立大学医学部衛生学教室の研究との関わりから、中小企業の労働条件改善活動や労働者の健康阻害要因に関する研究を行なってきた、いる。その経験を活かせるのか。それともスポーツ生理学・健康科学に関する研究や多少の知識が活かせるのか。





 振り返ると、転機に天の声ならぬ一言があり、今の自分がいる。ありがたいとつくづく思う。龍谷大学政策学部入学生に、天の声にはほど遠いが、何か助言でき支援できればと思う。また、これまでの教員あるいは研究生活が政策学部での教育に活かすことができるか大いに考えたいし、活かせる道も探りたいと思う。

 他者の立場に立って多くのことを考え、企画し、実行できる人たちが育つことを願っています。

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