2011年3月11日金曜日

カンニング事件で考えさせられたこと

的場 信敬

各種メディアでの報道もだいぶ落ち着いてきましたが、つい先日まで大問題になっていたカンニング事件について、少し考えさせられることがあったので、今日はそれについて、思うままに書いてみたいと思います。

カンニングはダメ、人に迷惑をかけるのもダメ、というのは当然のこととして、また、今回のことが刑事事件となったことの是非なども置いといて、まず気になったことのひとつ目は、メディアの反応です。特にテレビでの報道は、あまりにもひどかった。どのテレビ局も、今回「容疑者」となった予備校生が拘束される前から、人物を特定できるような細かいリサーチと報道を繰り返し、まだ19歳の少年を社会をあげて批判するような雰囲気を作り上げました。私は、彼がショックを受けて自殺でもしてしまうのではないかと本気で心配しました。さすがに、番組の外部コメンテーターなどの中には、報道のやり方について苦言を呈する人たちもいましたが、それでもテレビ報道全体のスタンスはなにも変わらずじまいでしたね。

少し前になりますが、昨年の冬季オリンピックでの国母選手(スノーボード)も、ファッションと言動について、それこそ「国賊」とでも言わんばかりの勢いでテレビで批判されていたことがありましたが、それを少し思い出しました。最近の日本社会は、人の「失敗」に対して、あまりにも厳しい。失敗したら徹底的に叩かれたり、ちょっと前にはやった言葉でいえば「再チャレンジ」が難しかったりします。受験の失敗も然り、新卒者の就職も然り(既卒者は就職環境が厳しくなります)、政治家の失態も然り・・・。まあ、最後の政治家については、そもそもの政治家の質の低さに問題があったりもしますが。

このところのテレビ報道や番組は、それこそ視聴率さえ取れれば何でも良い、みたいなスタンスが露骨に見えて、気分が悪くなります。バラエティ番組ならそれも良いですが、せめてニュースや報道番組は、さまざまな情報や見解を視聴者に提供し、視聴者自身がそこから自分の意見や考え方を形成できるようなものであって欲しい。政治の報道などもそうですが、最近は、世論をメディアが報道するのではなく、メディアが世論を一方的に形成しているように感じることがあります。もちろんこれは、情報を鵜呑みにしてしまう受け手(=私たち)の側にも問題はあるのですが。

今回の事件でもうひとつ感じたのは、そうまでして一流大学に合格したい、と思わせた、日本社会の価値観や構造の問題です。今回は、「母親に負担をかけたくないので国立に」というのが動機であったというようなことも言われていますが、それにしても、「出身大学によって人間としての価値まで測られてしまう」、あるいは、「一流大学を出ないと(良い)企業に就職できない」、というような、日本社会でいまだ支配的な価値観や構造が、今回の彼の行動に影響を与えた可能性は高いように思います。もちろん最近では、経済状況の悪化によって一流大学卒というステータスが即就職につながるということもありませんし、逆に企業の側も大学や年齢にとらわれない多様な人材を求めはじめているということも事実です。ただ、上記のような価値観を基にした偏差値教育にどっぷりと浸かってきた10代の若者が、このような新しい動きを敏感に察知するのは大変難しいことでしょう。

ひとりの研究者・教育者としては、現状の社会のあり方に矛盾を感じその変革を考えつつも、当面の課題として、そのような社会でもたくましくやっていける学生を育てければならない、というある種のジレンマに苛まれます。

いずれにしても、政策学という学問は、自治体の公共政策という狭義の「政策」だけでなく、このようなメディアのあり方や、雇用問題、さらに大きく社会を形作る価値観や構造まで幅広く検討するべき学問だと考えています。個別の政策によって社会を変えていくのはもちろん、これからの日本をどのような社会にしたいのか、ということを考え、その実践を志向することも、私たち(政策学部・研究科生になる皆さんも含めて)の使命だと思います。今回の出来事では、教育者としても、政策学を志す研究者としても、色々と考えさせられました。皆さん、一緒にがんばりましょう!(最後、強引なまとめ方でごめんなさい)