2011年4月29日金曜日

被災の宮城・岩手県人会 ふるさとへのメッセージ

松浦 さと子

東日本大震災の被災地、宮城県でコミュニティラジオ局を励まし、ラジオ受信機を配布して来られたFMわぃわぃ日比野純一さんから、「東北のお国言葉での音源(ラジオ番組)が足りない」と聞きました。安らいで聞いていただける民謡や民話の番組が創れないだろうか、と京都在住の東北ご出身の方々を探しましたら、宮城県人会と岩手県人会から10名が三条の京都コミュニティ放送に集まってくださいました。
 「どんな番組になるだかわかんねえけども」とお国ことばを思い出しながら自己紹介をしてくださる宮城県人会事務局長の片ケ瀬さんを始め、みなさんは京都在住60年の方から、3年前に来られた方まで、もうすっかり京都に馴染んでおられます。会長の小野寺さんは「ねげてきたんでねえよ、わかる?ねげて(逃げてきたわけじゃないよ)」と自己紹介、この「ずーずー弁」が聞きたかったと同窓会のように盛り上がる打ち合わせが進みました。町田局長はこの調子だと番組が6~700年くらいかかりそうだと苦笑しながら、「このラジオ局はお坊さんや看護師さん学生さんら、市民活動グループ110団体が番組を作っているんです。今日はみなさん自身で番組を作ってくださるということで私も楽しみにしてます。」とご挨拶。
 
 ご家族やお友達が被災され、しょっちゅう支援に帰ってます、という片ケ瀬さんは、最初はあの風景を見てもう駄目だと思った、でも、と少し表情が和らげて安心させてくださいました。東北の人間はがまんすることに慣れている、とも。初めての参加の方も、この訛りが聞きたかったんだ、と笑顔になられたことで私もほっとしました。
 奥州市出身の阿部さん佐藤さんは、震災直後に行った四条河原町での県人会募金活動で、京都の若者たちが次々と高額紙幣を募金箱に入れてくれ、470万円も集まったと感謝しておられました。
 また3年前に京都に来たばかりという和泉さんは最近疎開してこられた被災者の方々のお世話をされ、京都の方にとても親切にしていただいたとお礼の言葉を口にされました。伊藤さんは宮沢賢治のふるさと花巻の出身、だいぶやられましたけど、ゆたんぽとガスコンロで戦時中の暮らしはできると故郷からメールが来たと。

 「めでたいときに唄うんだが、これからめでたくなるようにな」と石巻市出身の平賀さんの「長持ち唄」が放送局中に響きました。その最中、親類の家が2件流され、3名が行方不明という状況のなかで初めて県人会に参加された気仙沼出身の千葉さんがこらえながら嗚咽され、私たちみなが涙にくれました。
 最高齢81歳の元小学校校長の高橋さんの民話「鬼婆とわらしこ」はお国言葉が味わい深くあたたかく、きっと子どもたちは何度も聞きたがったに違いありません。民話「弘法さん」、「南部牛追い唄」、「大漁節」で、県人会のみなさんが一体感を確認されたようにお見受けしました。また取りやめと決めていらした6月の会合予定を復活され、これからもっと深いおつきあいになられそうだとお聞きし、ほっとしています。

 わずかな時間をともにさせていただいただけですが、被災地出身の県人会のみなさんが、ふるさとと現在の住所とをつなぎ、悲しみや喜びを分け合い、双方の立場を代弁しようとされているお気持ちを受け止めました。ご縁のある方々の被災にどんなにおつらい状況がおありかもしれないのに、「何かしたいと思っていた」とかけつけられたそのご様子に、東北の方々の複雑なお気づかいを十分お汲みとりできず、早すぎた再会のきっかけとなってしまったのではなかったか、と憂えています。

 県人会のみなさんは、古いご縁をあたため、新しい縁をつくる触媒のような役割を果たしておられると感じました。若い世代が減っているとおっしゃっていた「県人会」。本当は、ふるさとを思って気が気ではないお気持だったのでは、と思うと、無理やりな機会をお創りしてしまったのではないか、「楽しく過ごさなければ」とふるまわれたのではないかと、巻き込んでしまったことを悔やみもしたのですが、会長さんが明るく「めんこい、めんこい」と可愛がってくださり、東北の方々のお優しさが忘れられないものとなりました。

 放送は5月4日。その番組のコピーは、神戸たかとりのFMわぃわぃのラジオキャラバンに託し、被災地のコミュニティラジオに届くはずです。

 うれしかったのは政策学部1年生がラジオカフェにかけつけてくれたこと。授業があって番組収録に間に合わなかったけれど、県人会のみなさんの次回の番組制作をお手伝いできるといいですね。

番組打ち合わせ中の宮城県人会・岩手県人会のみなさん


 収録中、何度か涙ぐまれた和泉さんと、後日、お話しする機会がありました。ラジオの収録などに呼び出して悲しみを更新させたのではないかと心苦しく思っていたのです。ところが違っていました。「原発に腹がたっていたんです、宮城にも原発はありますから。あった場所が違っただけ、あれはひどい。そして福島から来たこどもたちへの原発差別やいじめのことを聞いて、私はすっかりふさいでしまっていました」

 意外なことに、彼女はとても晴れやかな声で「でも、あの日のラジオ収録のおかげで震災後、同郷の人のことばを初めて近くに聞くことができて気持ちが晴れました。私は東北弁を話す人にしか東北弁で話せないのです。あの日までつらく後ろ向きだったのですが、マイナスの気持ちを切りかえて、前を向くってこういうことなんだって実感しました。お国言葉っていいですね。」

 京都三条ラジオカフェは小さなコミュニティラジオ局ですが、こんなふうに人を元気にできる装置なのですね。あたたかい同じ訛りを持つ人々が集い声を持ち寄れる場所として、県人会の方々にも親しんでもらえたらと思います。東北から来られた方、東北に暮らすみなさん、お近くのコミュニティ放送局でマイクを持って「震災」のこと「原発」のこと、がまんしないでお国言葉で話してください。