2014年3月13日木曜日

新藤宗幸『教育委員会―何が問題か』(岩波新書、2013年)を学生たちと読んで

奥野 恒久

ゼミ生有志と「現在社会を考える読書会」という自主ゼミを始めることにした。

 先日(2014年3月7日)は、新藤宗幸氏の『教育委員会―何が問題か』を取り上げた。
いじめや体罰事件、教科書採択、学校選択制、「日の丸」「君が代」問題など、教育をめぐっては学生たちの関心も高い。
そのなかで、大阪市の橋下市長が怒りをぶちまけ、安倍政権もその役割を縮小しようとする、教育委員会とは果たしてどのような組織なのか。
 
 本書では、教育委員会をめぐる現在の問題状況(1章)、委員の任命法など教育委員会の組織構成とその実態(2章)、
教育委員会制度の誕生と歴史(3章)が概観されている。戦後、GHQによる戦後改革の下、戦前戦中の「皇民教育」への
反省として誕生したのが教育委員会である。

 その背後には、文部省とGHQや内務省との力関係、そのなかでの文部省の「生き残り」策という現実政治がもちろんある。
1948年のスタート時、教育委員会の委員は住民の直接公選で選出された。教育に対する民衆統制と教育の地方分権を目指す
という理念からである。だが1956年、地方教育行政法が制定され、委員の公選制は廃止される。
著者が問題にするのは、都道府県教育委員会が持つ教員の人事権と、事務局を束ねる教育長と文部省の密接な関係であり、
そこから「地方公共団体における教育行政に対する国の指導的地位並びに市町村に対する都道府県委員会の指導的地位」(137頁)
という「タテの行政系列」が実態として出来上がったことである(4章)。

 そのうえで著者は、ナショナルミニマムとナショナルスタンダードを峻別するとの視点を前提に、「教員人事権を市町村に移す」、
「『中央教育委員会』(仮)といった内閣から独立性の高い行政委員会を設け、そこはただナショナルスタンダードを示す」、
「地方の教育委員会を廃止し、首長のもとに学校教育行政部門を統合する」、「学校区ごとに、子ども・保護者・教員・校長、
そして地域住民が直接参加する『学校委員会』(仮)を設け、そこが自治体における教育行政の『先端』としての決定権をもつ」
といった具体的な提言を行う(5章)。
 

 さて、読んだ学生たちである。
教育を論じるにあたっての出発点は、憲法26条を持ち出すまでもなく、教育を受ける子どもたちでなければならない。
だとすると、子ども→教室→学校→市町村→都道府県→国と、「ボトムアップ」での議論が必要となる。
また、首長や政権が変わるたびに、教育内容や制度がころころ変わってはならず、教育は政治的に中立でなければならない。
しかし実態は、そうではない。ここまでは、著者の主張におおむね賛成を示す。
だが、そうだとするならば、教育委員会を廃止するのではなく、戦後直後の理念に忠実な教育委員会を再生すべきでないかとの意見が出された。
著者は、教育に対する国の圧力を強調するが、地方における政治の圧力(橋下市長などによるそれ)への危機感が弱いのではないか、
という意識であろう。新自由主義と新国家主義が教育現場にも浸透しつつあるなか、それへの「防波堤」をいかに築くかは、
理念レベル・政策論レベルで探求すべき課題である。著者はそれらに一定の回答を示すうえで、「学校教育は地域の福祉、保健をはじめとした、
広い意味のまちづくりと密着していよう」(220頁)と、学校教育を「教育を受ける権利」の問題としてのみならず、
まちづくりの視点を重視しているのは、「政策学」的である。

 今回は教育委員会を取り上げたが、社会的に注目されている論題につき自らの意見を持つためには、
現時点におけるメリットとデメリットだけでなく、歴史的背景を知ること、そして何よりも価値や視点を含め
決して単純なことではないと学生たちが実感してくれたならば、それは「学ぶ」にあたっての力になるものと期待したい。
                                                      
                                                                     (2014年3月12日)